知ろう

伊豆大島ジオパークの基本情報と見どころ紹介

伊豆大島は、今から数万年前の海底噴火で誕生し、幾度となく噴火を繰り返して成長した火山の島です。

海上に姿を現したばかりの頃は、火山灰や溶岩などの真っ黒い噴出物に辺り一面覆われていました。

やがて風や海流によって運ばれて、あるいは海を渡って飛んできた鳥や昆虫たちによって島に生命が宿ります。
遮るものの無い厳しい日射しや激しい潮風に耐え、徐々に緑が生い茂り、動物たちが豊かに息づく島となっていきました。

そして、いつしか人もこの島にたどり着き、定住し、社会を築いていきました。

しかし、ここはまだまだ若くて元気な火山島。ひとやすみが終わると再び噴火が起こります。
生き物も人も、噴火によるダメージを繰り返し受けました。

それでもたくましく生き延びた子孫が今に続いています。
生き物たちは体のつくりや暮らし方を変えたりして、島の環境に適応してきました。
そして私たち人間も、火山に向き合い、火山とともに暮らしを営んできたのです。




火山島の成り立ち


伊豆大島ってどうやってできたの? 順番に見ていこう


1伊豆大島の歴史は、海に並んだ古い火山の物語から始まります。



今から数10万年前のこと…
このあたりには3つの火山がありました。



23つの火山はやがて活動を終え、波に削られ次第に小さくなっていきました。



このままでは、
3つの火山島は海の中に姿を消してしまう...

そのとき!



3数万年前、すぐ近くの海底で新たな噴火が始まりました!



伊豆大島をつくった火山の誕生です!



4新しい火山は何度も噴火を繰り返し、3つの古火山の残骸に覆いかぶさりました。



その後も噴火を続け、
大きなひとつの火山島になりました。



5およそ1700年前、山頂で大規模な水蒸気噴火が起こりました。




大量の岩石や土砂が島を覆うように流れ下り、
山頂部が陥没してカルデラができました。



61777年からの大噴火では、カルデラの中に新たな山をつくりました。


それが三原山です。

その後はカルデラの中で溶岩流を流す噴火を
繰り返してきました。

1986年に起こったカルデラの外での噴火は、
およそ560年ぶりの出来事でした。




植物の再生


火山噴火によって溶岩や火山灰で地表が覆われたり、時には有毒ガスが放出され、生き物たちは大きなダメージを受けることとなります。その影響が大きいと、そこには、生物が存在しない裸地が生まれます。しかし、いつしか溶岩のくぼみや隙間に植物が芽生え、年々その数を増やし、草本の群落が点在するようになります。やがて、その群落に低木が加わり低木林となり、陽樹林、陰樹林と、時間経過とともに植生が入れ替わりながら森林が形成されていきます。


伊豆大島の山頂カルデラでは、このように植物群落が移り変わる「植生遷移」を観察することができます。


1. ハチジョウイタドリの芽吹き


2. ハチジョウイタドリの丸い株が点在


3. ハチジョウススキが加わった小群落が点在。アシタバ、ノコンギク、サクユリなども加わる


4. オオバヤシャブシ、ニオイウツギなどの落葉低木林に移っていく


5. ハチジョウイヌツゲ、ヒサカキ、マユミ、シロダモなどの常緑樹が加わり混交林へと発展する


6. 常緑樹が成長し、日照が遮られる。林床にオオシマカンスゲが現れる




火山島の暮らし


たびたび噴火を起こす火山の島で、先人たちはさまざまな苦難を克服しながら暮らしてきました。


人の暮らしの始まり


竜ノ口遺跡

伊豆大島における人の暮らしの最も古い痕跡は、元町・湯の浜南端の海食崖、「下高洞遺跡」から見つかっています。平坂式尖底土器、竪穴式住居跡、土坑、神津島産黒曜石の石鏃、軽石片、イノシシの頭骨など多数の遺物が出土され、約8,000年前、縄文時代早期の遺跡とされました。

野増の「竜ノ口遺跡」では、分厚い溶岩流の下の焼土層から土器や石器、骨角器が発見されました。縄文時代中期の暮らしがここで営まれていたとされています。しかし、穏やかな暮らしも噴火によって一変します。辺り一帯、溶岩流で埋め尽くされてしまったのです。縄文人は、溶岩流が到達する前に他の土地に逃げ延びることができたのでしょうか。


水と暮らし


若い火山島である伊豆大島は、水を通しやすい火山噴出物に地表が覆われており、常時水を湛える川や湖がありません。そのため、生活用水の確保に大変苦労してきた歴史があります。
かつてはわずかな湧き水を頼りにし、湧水地や水が溜まるような場所の周辺に集落が発達しました。しかし、渇水期となると湧水のみでは十分ではなく、水不足を補うために海岸付近に井戸を掘り、共同井戸「ハマンカー」として利用したり、各家庭で天水を井戸に溜めて使いました。
朝夕、湧水地やハマンカーから水を汲み、家まで運ぶのは女性の仕事でした。水桶を頭上にささいで(乗せて)歩く女性たちの姿は、この島を象徴する風情ある光景となりました。


水桶の頭上運搬(写真左)とハマンカーの水汲み(写真右)


水と産業


くさや

日本では、大陸から伝わって以来、稲作が政治・経済・祭祀・文化等と深く結びつき、農耕社会が築かれてきました。しかし、水はけがよすぎるこの島では、水田を作ることができませんでした。そのため、江戸時代の途中まで、島の年貢は塩で納められていました。その後は金納に変わり、現金を得るために薪炭業が発達しました。また、島の特産品「くさや」は、貴重な水や塩を倹約し、魚を漬け込む塩水を使い回しているうちに偶然できた発酵食品とされています。
このように、水に乏しい火山島で独自の暮らしや産業が育まれていきました。


椿とともにある暮らし


椿の防風林に囲まれた畑

温暖多雨の気候と水はけのよい土壌が生育に適しているのに加え、火山ガスにも強いヤブツバキは、伊豆大島に推定約300万本も自生するといわれています。縄文遺跡が発掘された地層からもツバキの葉の印象化石が見つかっており、古くから人の暮らしのすぐそばにツバキがあったことが伺えます。しっかりと根を張り、硬い幹に厚い葉を一年中茂らせるツバキは、島ならではの激しい強風から家や畑を守るため、防風林としても植えられてきました。さらに、ツバキの幹枝は薪炭に、種は椿油やお土産用のアクセサリーとして加工され、その全てが島民の暮らしに欠かせない存在となりました。


火山地形を活かす


波浮港は、9世紀初めのマグマ水蒸気噴火でできた火口湖が、1703年の元禄地震で発生した大津波で海とつながり、その後人工的に湾口が広げられて開港したという、類まれなる由来を持つ港です。天然の防風壁で囲まれたこの港は風待ち港としておおいに栄え、島の発展の礎を築きました。
他にも、割れ目噴火でできた平らな火口は、野球場や畑、墓地として、海に突き出た溶岩岬は桟橋として、海食崖の入り江は漁港として活用されてきました。火山の地形を上手に活かした暮らしもまた伊豆大島の特徴です。


波浮港のかつてのにぎわい

岡田火山の海食崖に守られる岡田港


火山観光


生きている火山の島は、多くの人を魅了しました。
明治末期、航路の発達に伴い、観光目的の来島者が増えていきました。異国情緒あふれる独特な暮らしぶりやダイナミックな火山景観に惹かれ、文人墨客が多数訪れては伊豆大島を題材とする作品が発表されました。また、1928(昭和3)年、歌曲「波浮の港」の大ヒットにより、伊豆大島は全国から一躍注目を集めます。元町港から山頂へと続く道には茶屋が建ち並び、登山客でにぎわいました。砂漠景観をラクダやロバに乗って遊覧したりスライダーに乗って滑走するなど、昭和初期に導入された斬新なアトラクションも脚光を浴びました。
1986年の噴火では、天高く噴き上がる溶岩噴泉や三原山斜面を下る溶岩流を一目見ようと島民はもちろん観光客が山頂に押し寄せ、登山道に渋滞が起こるほどでした。


ラクダ観光

スライダー(滑走台)


火山との共生


割れ目噴火

噴火は島民の生活を脅かすものでもありました。
1684-90年の貞享の大噴火では「地震が多発し家屋倒壊」「降灰の厚さは山中で1mあまり、村落近くで25~60cmに達し、畑や山林は埋没した」、1777-92年の安永の大噴火では「降灰は山麓でも1.2~1.5mの厚さに達した」「多量の降灰により、畑の農作物はもちろん、竹林・山草・海藻までもが枯絶、牛馬が死に絶え、島中一同飢渇」といった被害状況が史料に残されています。

1986年の噴火では、噴火開始から7日目の11月21日、565年振りの割れ目噴火が発生。カルデラ床の北部、さらに外輪山の北西斜面に列を成して火口が開き、溶岩流が元町地区の集落付近まで流れ下りました。そのことがきっかけとなり、島民約1万人が島外に避難する事態となりました。幸いにも火山活動は早期に静まり、1ヵ月ほどで帰島することができましたが、経済面では大きな損失となりました。




火山はときに災害をもたらし、平穏な日常を脅かすものではありますが、噴火している一時を除けば、島民の暮らしに欠くことができない恵みを与えてくれます。伊豆大島では古くから、噴き上がるマグマや赤く染まった空を「御神火(ごじんか)」と呼び、敬い慕ってきました。

私たちは、火山のふもとではなく、火山そのものの中腹に暮らしています。今後も噴火を繰り返すであろう火山とどう向き合い、この島の限りある資源や独自の文化・生態系を守り、活かし、どう共生していくのかが、伊豆大島ジオパークの重要なテーマとなっています。